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06月10日-06月10日

端午の節句

   チベット豆知識  
  チベットの歴史概要
 
 

チベットに住むチベット族は、旧石器時代(紀元前1万3千年~紀元前1万年)からの長い歴史を持ち、これも、紀元前からすでに、黄河中下流域の平原に住む漢民族とつながりをもっていた。

 

7世紀に、観音菩薩の化身と称するソンツェン・ガムポが、武力によって吐蕃王朝を立てた。そして、隣国の中国の唐(618~907年)とネパールから、友好の証として、王家の娘を嫁に迎え入れるようになった。

 

1277年には、当時強大だったモンゴルの元が、チベットにも侵攻。モンゴルの支配者は、チベット仏教の教えに感銘し、モンゴル人の間にチベット仏教の教えが浸透していった。(なお、モンゴルは現在も、チベット仏教の信者が多い。)

 

1642年には、チベット指導者のソナム・ギャンツォが、当時、モンゴルの支配者であるアルタン・ハンから、「ダライ・ラマ」の称号を授かり、この時以来、代々のダライ・ラマ法王がチベットを統治していくようになった。

 

17世紀の清王朝の時代になると、清の皇帝は、ダライ・ラマ(チベット仏教界の序列一位、政治権力を持つ)とパンチェン・ラマ(チベット仏教界の序列二位、政治権力は持たない)の地位を定め、チベットのラサに「駐蔵大臣」を派遣した。

 

清の皇帝は、西モンゴルからおこり、チベットに王朝を樹立させた、グシ・ハン一族(熱心なダライ・ラマ信者)が、チベット各地に保有していた土地を接収し、南半分をダライ・ラマ領に加えた。

 

また、グシ・ハン一族によって、1642年に、ダライ・ラマに寄進された、ヤルンツァンポ河流域と、この新たにダライ・ラマ領に加えられた地域を併せた領域が「西蔵」地方と呼ばれるようになった。

 

18世紀の末以降になると、インドを植民地化していたイギリスは、チベットとの通商にも、強い関心を寄せるようになった。チベットは、周囲のヒマラヤの小国たちが、条約や協定などを通じて、次々と、英領インドに従っていく状況を見て、イギリスの言いなりになれば、近隣国の二の舞になることを心配した。そこで、ダライ・ラマ13世は独立を貫徹したという。

 

ロシアが南下し、チベットがロシアの手中に収まることを恐れていたイギリスは、チベットとの有効な話し合いを持つために、清に対して、チベットが協調的な態度を取るよう協力してほしいと願い出た。この結果、チベットの知らない間に、1890年と1893年の2度にわたり、イギリスと清の間でチベットに関することを含む条約が取り交わされた。

 

イギリスは1903年に、英領インド軍を使いチベットへ侵攻し、翌年イギリスはチベット政府とラサ条約を結び、ダライ・ラマ13世を追放した後、1年も経たずにラサから引き上げた。

 

1951年、西蔵和平解放となり、1965年に、西蔵自治区人民政府が成立し、翌年の 1966年、西蔵自治区が発足した。

1986年になると、ラサなどは、対外的にも開放され、外国人が訪問することも可能となった。

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